岩手県奥州市

日常であり、“特別”な風景「胆沢扇状地」

2022.02.05

日本各地のナビゲーターが、その土地に暮らす人たち(ふるさとLOVERS)からお聞きした「100年先に残したいもの」をご紹介するコーナー。今回は、岩手県奥州市にある文秀堂株式会社の髙橋竜太郎さんに「胆沢扇状地」をおすすめいただきました。 

50年ぶりに復活を遂げた伝統の水沢筆

岩手県の南に位置する奥州市水沢地域では、江戸時代末期から明治時代初期にかけて盛んに筆作りが行われていました。日用品としての使いやすさを追求した筆は「水沢筆」と呼ばれ、最盛期には70軒ほどの筆屋が軒を連ねたといいます。しかし時代の流れとともに筆屋は減っていき、今では創業から200年以上の歴史を持つ文秀堂株式会社のみが水沢筆を作り続けています。

文秀堂も一時は水沢筆の製造を中止したものの、それからおよそ50年の時を経て「地域に残った最後の筆屋として水沢筆を後世に伝えていきたい」と、筆作りを再開しました。

文秀堂の7代目を務めている髙橋竜太郎社長に、奥州市の100年先に残したいものについて伺うと「日本最大級といわれる胆沢扇状地(いさわせんじょうち)を、後世まで語り継いでいきたい」と教えてくれました。日頃から町の歴史や土地の成り立ちについて調べ、子どもたちや地域の人に向けた歴史講座を行っている髙橋社長。「胆沢扇状地はここにしかない特別なものなので、この風景をずっと先の未来まで残していきたいです」と語ります。

「扇状地」というと誰もが一度は学校で習うものですが、具体的にどんなものか今ひとつピンときません。これはぜひとも現場に足を運んでみなければと、髙橋社長が惚れ込む胆沢扇状地へ、その魅力を探りに行ってきました。

日本最大級の胆沢扇状地ならではの特徴

そもそも扇状地とは、山あいの谷から平野部に向かって砂や石が流れ出し、扇形に広がりながら堆積した地形のことを指します。扇状地自体は珍しいものではありませんが、胆沢扇状地の場合は扇形の一辺の長さが約20kmもあり日本最大級の規模を誇ります。今からおよそ100万年前から1万年前までの間に形成されたと考えられており、河岸段丘(かがんだんきゅう)と呼ばれる巨大な階段のような高低差が6段あるのも胆沢扇状地ならではの特徴です。

この河岸段丘は、町を流れる胆沢川(いさわがわ)が移動したことによってできたもの。現在は町の北側にあたる奥州市と金ケ崎町の境を流れていますが、かつては南側に位置していました。それが何万年という途方もない時間をかけて北へ、北へと流れる場所を変えていき、川が移動するたびに土を削って生まれた段差が河岸段丘なのです。JR前沢駅から胆沢方面へ向かう県道302号には、ジェットコースターさながらの高低差が複数ありますが、これは知る人ぞ知る、河岸段丘を体感できる貴重なスポットでもあります。

古来より豊かな水に恵まれた胆沢扇状地

本来、扇状地は水はけが良く、稲作よりも果樹栽培などに適しています。しかし、胆沢扇状地を始めとする奥州市は県内屈指の米どころ。米の「全国食味ランキング」で何度も最高位の「特A」を受賞していて、品質の高さにも定評があります。稲作に向いていないはずの扇状地で、どうしてこれほどまでに稲作が広まったのか。この地域に詳しい「いさわ散居ガイドの会」の鈴木公男(すずき・きみお)会長にお話しを伺いました。

「胆沢扇状地は一般的な扇状地と比べて砂や石の層が薄く、地下水が湧き出しやすい傾向にありました。特に扇状地の先端に位置する平野部は古来から水に恵まれていて、弥生時代の中頃にはすでに米作りが盛んに行われていたのです」

前方後円墳から見える当時の人々の暮らし

鈴木会長のお話しの通り、胆沢扇状地にある弥生時代の遺跡からは稲の穂を摘み取るために作られた「石包丁」が発掘されているほか、JR水沢駅から車で15分ほどの所には、国内最北端となる前方後円墳「角塚古墳(つのづかこふん)」も鎮座しています。未だ墓の主は解明されていませんが、古墳が作られるほどの権力者だったことは確か。近くには大規模な集落跡も発見されていて、多くの人たちがこの土地に住み、主食である米を育てながら豊かに暮らしていたことが伺えます。

水はけの良い扇状地で水田を増やす難しさ

そんな水に恵まれた胆沢扇状地でしたが、江戸時代になると農業用水を求めて争う「水けんか」が起こり始めます。当時は米が経済の中心だったことから、全国各地で田んぼを増やすための開田ブームが到来。胆沢扇状地で暮らす人々も平野部だけでなく山間部まで水田を広げたものの、広大な田んぼを潤すだけの水を得ることができず深刻な水不足が発生しました。困った人々は「みんなが安心して米づくりができるように」と、川の水を最大限に利用した農業用の水路を作ることを決意。もちろん重機などはなく、硬い岩盤を手作業で掘り進めていったのです。

溢れ出す水の迫力に圧倒される円筒分水工

地域で最も古い旧穴山堰(きゅうあなやませき)は全長約18kmもあり、扇状地の中で2番目に高い位置にある上野原段丘(うえのはらだんきゅう)まで水を引き、山間部にある水田を潤しました。やがて昭和28年には、日本初となるロックフィルダム(土や岩石を材料とし、比較的地盤が悪い場所でも建設できるもの)として石淵ダムが竣工したほか、昭和32年には地域ごとに水を平等に配分するため、日本最大級の円筒分水工(写真上)も完成。こうした設備によって水不足はかなり解消されましたが、それでもまだ十分とは言えない状況が続きました。

400年の時を経て実現した豊かな水がある日々

かつては深刻な干ばつが続くと、地域ごとに一定期間の取水制限を実施。各地域の男衆が持ち回りで番水(ばんすい)と呼ばれる水路の監視係になり、夜通し見張りをしたといいます。こうした長きに渡る水不足を解消したのは、石渕ダムのおよそ9倍の規模となる胆沢ダムが完成してからでした。竣工はなんと平成25年、今からわずか8年前のことです。江戸時代から始まった水不足は、平成の世になってようやく決着。胆沢扇状地で暮らす人々は400年以上もの長きに渡り、水の確保に苦労しながらも米作りへの熱意を持ち続けたのです。

諦めず歩み続けた先に待っていた特別な景色

そうして今では、秋になるといたるところで黄金色に輝く稲穂が見られるようになりました。よく晴れた日には人々が米の収穫作業を進め、その周りにはトンボの群れが悠々と飛び交います。

今なお、日本各地で見られる風景ですが、この土地においては決して当たり前のものではありません。胆沢扇状地という地形と、そこで暮らす人たちの努力があったからこそ生まれた奇跡のような光景です。扇状地を紹介してくれた髙橋社長は「この地域で暮らす人たちにとって、今は日常の風景です。しかし歴史を知れば知るほど、その場所が特別なものへ変わっていきます」と言っていました。胆沢扇状地の実りの風景はこれまでの歴史を私たちに教え、さらに先の未来へと伝え続けていくのかもしれません。 

施設情報はこちら

(施設名1)
角塚古墳
(住所)
岩手県奥州市胆沢南都田字塚田
(休業日)
なし

(施設名2)
水文化遺産 旧穴山堰 武兵衛穴口
(住所)
岩手県奥州市胆沢若柳字馬留
(休業日)
なし

(施設名3)
水の歴史公園「徳水園」(円筒分水工)
(住所)
岩手県奥州市胆沢区若柳字上土橋
(電話番号)
0197-24-0171
(休業日)
なし
 
(施設名4)
胆沢ダム管理事務所
(住所)
岩手県奥州市胆沢若柳横岳前山6
(電話番号)
0197-49-2981
(営業時間)
9時~17時
(休業日)
土日・祝日
 
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地域ナビゲーター

山口 由

東北支部 ふるさとLOVERSナビゲーター
山口 由

2011年、東日本大震災をきっかけに横浜から盛岡へUターン。現在はフリーライターとして、お店や人材の紹介、学校案内、会社案内、町の広報誌など幅広く活動中。取材を通して出会うさまざまな人の思いや歴史を知り、「岩手ってすごいなぁ」と実感する日々を送っています。趣味は散歩と読書、長距離ドライブなど。