ワークショップ参加者レポート

実家のような安心感。江刺に愛されるスポーツ店

スポーツ店というと、大手チェーンがあるが、江刺には地元に愛されるスポーツ店がある。地元の学生が多く訪れる、井上スポーツ店だ。いつ訪れても暖かく迎えてくれ、選手を支えてくれる「実家」のような安心感が井上スポーツ店にはある。
井上スポーツ店のスタッフが、バスケットボールやバレーボールの協会に所属し選手やチームのサポートを行っているというお話や、店員の方と楽しそうにお話をしているお客様の姿から、井上スポーツ店が地域に貢献しており、地域の方々から愛されていることが伝わってくる。
「お客様を第一に考えるだけでなく、スタッフも大切にしたい。井上スポーツ店の魅力は明るいところ」と井上建志さんは話す。スタッフを大切にし、店員同士が仲が良いという点が、井上スポーツ店の「明るく暖かい雰囲気」という魅力に繋がっているのかもしれない。

「100年200年はあたり前」小学生も大活躍!
地域ぐるみで守る奥州市の伝統

奥州市には、モノだけでなく、途絶えないでほしい文化や伝統も豊富にあります。
例えば、独特の色鮮やかな衣装を身につけて踊られる、「念仏剣舞(ねんぶつけんばい)」や「鹿(しし)踊り」、神楽など、奥州市には数多くの民俗芸能が残ります。
現代音楽の何にも当てはまらない、独特の音程やリズムを覚えるのに、楽譜や踊りの教本はありません。代々目で見、耳で聴いて伝えられてきたというから驚きです。
この地域では、お祭りや神事、各種行事など、様々な場面で民俗芸能が披露されます。
それは、五穀豊穣や厄除け、無病息災、先祖供養などの祈りが込められるとともに、人々の貴重な娯楽でもあり、特別なものでありながら、生活に自然と組み込まれてきたように感じます。
伝授から200年以上、昔の原形そのままに伝承している「南下幅念佛剣舞(みなみしたはばねんぶつけんばい)」もその一つ。
険しい顔のお面をつけ、剣や扇子を手に持って踊ります。
そこで活躍する小学生の高橋奈々さんは、小学3年生の頃に太鼓役として入り、毎週の練習を欠かしません。
小学6年生になった今は、太鼓だけでなく大きなお面をつけて踊りもこなします。
きっと今日はさぼりたいなとかテレビをみたいな、などと思うこともあるはずなのに、どうして毎週ちゃんと練習に来られるのか聞いてみると、「とにかく練習が楽しい」のだそう!
そして中学生になっても、できるだけ続けたいと頼もしい限りです。
そんな奈々さんを心強く思い、温かく指導にあたるのは、「南下幅念佛剣舞」事務局の村上厚志さん。
「昔は、このような伝統を伝授されるのはごく限られた地域ごとの家柄に限られてきたが、今はそんなことを言っていては、大事な伝統が途絶えてしまう。だから剣舞をやってみたいという人たちには、大きく間口を広げて受け入れています」
踊りに限らず、このような昔ながらの伝統ごとを、年配者のものと切り捨てずに、子供から大人までみんなで守るというその姿勢が、今の奥州市を築いた土台となっているのではないでしょうか。


「りんごは市民の元気の源!」
訪れるたびに違った表情をみせる、奥州市のりんご畑

関東圏の方々から、岩手ってりんごあるの?と聞かれることがよくあるのですが、奥州市のりんごは、自慢の美味しいりんごです!
奥州市には2つのJA(JA江刺、JA岩手ふるさと)があるのですが、両JAへりんごの出荷者として登録されている方だけでも合計180軒近く、個人出荷や自家消費をされている方を含めるとその何倍にもなるそうです。
江刺りんごで名高い江刺地域はもちろんのこと、水沢や前沢地域にも昔からの農家さんがたくさんあります。りんごは奥州市を代表する果樹といえます。


奥州市では桜の見頃が終わった後、ゴールデンウィーク頃に、各地でりんごの花が満開を迎えます。ほのかに甘い香りのする花が咲き誇るりんご畑は圧巻です。
梅雨時期には青い実がすくすく育ち、極早生品種は、お盆の頃から収穫が始まります。
そこからどんどん収穫時期を迎える品種が増え、12月まで農家さんたちは大忙し。
1月以降は雪の降る中、剪定に励む農家さんを見かけることも。
奥州市のりんご農家さんたちは、手入れが行き届くよう、樹をあまり大きくせずに一つ一つの実を見ながら大事に育てます。
袋をかけずに日光をたくさん浴びたりんごは、食べるとパワーをもらえる気がします。私も冷蔵庫に常備して、よくまるかじりする、大好きな奥州市民の元気の源です。
地元の各直売所には、春先まで当然のようにりんごが並びます。中でも江刺ふるさと市場という産直施設には、りんごで埋め尽くされる売り場があり、シーズンには毎日相当な量が出荷されますが、夕方には品薄になっていることも多く、いかに市民の皆さんがりんごを愛しているかが見てとれます。
http://www.esashifurusato.shop/introduce.html


「お刺身代わりのぷるぷるスイーツ『くるみ豆腐』を伝える匠の技」
並んで教わる空間はまるでばあちゃんちの台所

 昔は地域で事あるごとに教わり継がれてきた郷土の料理を地元のばあちゃんから教わりたい。
 そんな願いが叶えられる場所が“えさし藤原の郷”の隣にある「えさし郷土文化館」である。郷土料理体験ができるこの施設は、残念ながら、今は新型コロナの影響で、食に関する体験は休止となっている。落ち着いて再開したらぜひ作ってほしい郷土料理を今回は体験教室の先生である女性のお話とともにお伝えしたい。

 その昔、冠婚葬祭も、となり近所で互いに助けあっていた頃からお盆や法事の精進料理の一品として、お刺身代わりに添えられてきた「くるみ豆腐」。今も奥州江刺の藤里地域で作り続けられている、この地域特有の郷土料理である。

 そのくるみ豆腐の作り方を教えてくれるのは、岩手県食の匠の佐々木エイ子さん(85歳)。
 「ここ(藤里)にはそこかしこにくるみの木があったから、本来はごまで作るのをくるみで作ったのがはじまりなそうなの」と語りながら、くず粉と摺ったくるみを水で溶いた生地が入っている鍋を、エイ子さんはへらでくるくるとかき混ぜる。「火にかけたら、何があっても手を休めず、つやが出てくるまで練るんだよ」「仕上げの間際に塩を加えると、甘みが引き立つの・・・」話しの通り、エイ子さんの手も決して休むことはない。

 できあがった「くるみ豆腐」は、ほんのりとした甘さ。
 「昔は甘いのがごちそうだったから、もっと甘かった。今はそんなに甘くないほうがいいから、誰でも作りやすいようにくるみもくずも砂糖も同量にして覚えやすくしたの」
 昔ながらの変わらぬところと、今の時代に合わせたおいしいのまん中を見つけながら「いつまでも作り続けられるように」と思ってね・・・」とエイ子さんは微笑む。
 体験には予約が必要だが、懐かしくて新しい郷土料理体験は、奥州江刺をまたひとつふるさとへと近づけてくれるだろう。

※えさし郷土文化館 http://www.esashi-iwate.gr.jp/bunka/


見下ろせばふるさとの町並み、
昔を感じる感動が詰まったかつての病院

 奥州市の江刺にある明治に建てられた旧岩谷堂共立病院。
 入口を通って中に入るとまず目につくのが、身長を測るのに使ってみたいと思うくらい、立派で大きな4本の柱です。天井まで続くこの柱は約10m程にもなり、昔はこれを人力で立てていたというから驚きです。傍らに立って触れてみると、何年もこの建物を支えてきた柱の歴史が感じられます。
 奥の急な階段から4階まで上ると、東西南北にそれぞれ設けられた窓から外の景色を見下ろすことができます。普段あまりじっくり見ることのないふるさとを遠くまで見渡していると、ゆったりとした時の流れが心地よいです。


 旧岩谷堂共立病院には病院としての歴史に関わる数々の資料なども展示されています。また、戦後のラジオドラマで知られた劇作家である菊田一夫氏の作品である「鐘の鳴る丘」のモチーフにもなったそうです。旧岩谷堂共立病院に秘められた数々の歴史を感じに、是非、足を運んで実感してみてほしいと思います。


日本一のかやぶき屋根をもつ正法寺

岩手県奥州市にある正法寺は日本一のかやぶき屋根をもつお寺です。真正面から見るととても荘厳で、今ではあまり見られないかやぶき屋根に、歴史を感じさせます。真正面から見るのもいいのですが、お寺の向かい側に橋があり、その上から見下ろすお寺も見え方が変わって面白いです。この見方は、地元の人だからこそ知っている見方なので、是非沢山の人に見てもらいたいです。小さな集落があること、集落が正法寺を囲み集落全体でお寺を大切にしてきたことが分かります。また、春夏秋冬を全体で感じることができるのでオススメです。春は桜がきれいに咲き、桜の淡いピンクと正法寺の写真を撮ることができます。夏は、緑の木々に囲まれ自然の涼しさを感じることができます。また、秋には紅葉が正法寺を囲み、赤色や黄色に囲まれ茶色の屋根とのコントラストが綺麗です。そして冬のかやぶき屋根に雪が積もった正法寺は、荘厳な雰囲気でありつつ、こんもり積もった雪が可愛らしく、雪国ならではだなと感じさせます。おすすめは雪の時期に足を運んで頂き、実際の様子を見てほしいです。四季折々の正法寺は何度見に行ってもその季節の感動があると思います。

玉里の地で時代とともに引き継がれる『玉里甚句』

 江刺の街から少し離れたところにある玉里地区に伝わる玉里甚句という踊りは、地域のおじいちゃんおばあちゃんから小学生に毎年引き継がれ、それは、今もなお続いている。
 甚句踊り保存会の伊藤美喜子さん(67)に聞くと、「農作業が終わり皆で座敷でリズムに乗りながら皿を叩いていたりして、自然と踊りも付いたことで玉里甚句ができて、昭和54年頃に保存会ができ令和になった今でも引き継がれている」と語るので驚きだ。私も小学生の頃に教わり、何も考えずに踊っていたが、そこにはちゃんと意味があったようだ。心地よい音色と共に田植えの様子や左官の様子が躍りに現れている。
「玉里地区の伝統芸能ともいえる『玉里甚句』をこれからも引き継いでいき、発表の場はコロナ禍である今は難しいが様々な人に知ってもらいたい」
玉里甚句踊り保存会の伊藤さんはそう語る。


うどんとすいとんにイタリアンを「移食」

うどんやすいとん料理と聞いてみなさんはどういうイメージをもっていますでしょうか? 今回は「イタリアに修行して地元に戻ってきたすいとんうどん屋さん」のちょっと変わったメニューとその想いに迫りました。

岩手県胆沢、愛宕小学校の近くにある26年続く「いなか料理おふくろ」の3代目店主、渡辺卓さん(38)。愛宕生まれの、愛宕育ち。幼少の時からおばあちゃんがお店で料理をする姿を見て、料理が好きになったそうです。料理が趣味となった渡辺さんは、学生時代はイタリア料理店のバイトをし、その後、野菜ソムリエの資格をとり、西洋野菜の勉強もしました。海外に住むことを人生で経験したいと言う思いが強くなり、アルバイト経験と、サッカーが好きなことが重なりイタリアで料理の腕を磨きたいと決め、約6年半もの間、イタリアで料理の修行をしてきました。
その後、地元に帰ってから、「おふくろ」の経営状況を把握したそうです。食材は地産のものは使っていませんでした。一からお店を始めるか、おふくろを再建させるか迷ったいたときに、おばあちゃんにお願いされたことがきっかけとなり、再建を決意しました。イタリアでは地元で採れる食材を使い料理をするという特徴があり、同じように、地元で採れる食材で料理を提供できないかと何度も試行錯誤したそうです。

おふくろのメニューは、うどんやすいとんが基本となっています。中でも冬季限定の味噌煮込みうどんはここでしか味わえません。味のベースは味噌ですが、渡辺さんが修行で身に着けた本場イタリア料理の技術が「移食」された味噌煮込みうどんになっているのです!スパイシー味、チリトマト味、チーズ味の3つの味が用意されており、見た目もさることながら、うどんをズルズルっと啜ると口の中で、おなじみの日本の味からなんとも不思議なイタリアの味に変わっていく絶妙な味覚の変化が起こります!残りのスープにごはんを入れて食べるおじやも絶品です!最後の最後まで和食なのにイタリアンなのです。渡辺さんは「型にはまらない発想を常に心がけている」と言っていました。

地元で採れる食材の提供をしてくれている生産者さんにいつも感謝している渡辺さんは、「食材を提供してくれる人をもっとピックアップしたい」と言っています。そして、その食材を使った料理を食べに、さらにおふくろを訪れてくれるお客さんが増えることを願いながら今日も腕を振るうのでした。


圧倒的な存在感を持つ鹿踊り

私が奥州市に住んでいて1番好きなものは『鹿踊り』です。
私は幼い頃から奥州市江刺で育ち、それと同時に鹿踊りと深く関わってきました。父の影響を受け、中学生の頃から鹿踊りをしています。現在は、高校の鹿踊り部に所属しています。
江刺に鹿踊りが伝わってから、現在まで約数百年以上経過した今では県内だけではなく、全国にまで広まっています。各団体によっては異なりますが、鹿踊りの全ての基本となる儀礼的な踊りでは『五穀豊穣』『悪魔退散』『国土安穏』といった祈りの意味が込められているといいます。
私は鹿踊りをもっと多くの人に広めていきたいと思っています。高校生である私達なりにできることを考えた結果、2020年、鹿踊りのグッズを作成しました。公演で踊るのとは別の形でアピールして行きたいと思っています。

「日本酒は、自分好みに割って飲む」
〜岩手・奥州 岩手銘醸㈱及川専務〜

岩手県奥州市前沢にある「岩手銘醸株式会社」。
優しい面立ちの若き杜氏(とうじ)が進める日本酒カクテルが大学生にうけている。
昭和30年創業のこの会社。地元では幅広い世代にとってなじみの酒造りを続けている。
しかし、作り手も高齢になり今は若い世代の杜氏に世代交代する時代となった。
日本酒ブームの風を背に受けた若い世代は、日本酒をもっと広めるための挑戦をしている。
その中で生まれたのが「日本酒カクテル」。
岩手銘醸「岩手誉(いわてほまれ)」を奥州市産「りんごジュース」で割って飲む。という新たな飲み方提案である。
岩手銘醸 及川専務曰く「基本は1対1で割ってみてください。その後は、お好みの分量で楽しんで下さい。これが絶対という割り方はないので、いろいろと試してみては」とのこと。
盛岡市の飲食店ではこの日本酒カクテルを提供する店もあるが、自分の好きな時間に好きな濃さに割って飲むのもオツでいい。是非お試しあれ。


美智子上皇后ご成婚時正田家の引き出物
「等観金欄皿」に思いを馳せる

 等観金欄皿は、透明なガラスの間に袈裟にも使われる美しい金欄を挟んで、見えるようにした皿です。昔は岩手県内で一番の老舗百貨店「川徳」でも販売され、結婚式を始め、歳祝いなど贈答品として販売されておりました。
 現在詳しい資料はほとんど残っておらず、奥州市歴史遺産課でも詳細は分かりませんでしたが、工房のあった真城寺の現在の住職夫妻と話ができました。しかし、「漆が取れなくなったと聞いたが、祖父1代限りで製作をやめたので詳しくは分からない」とのことでした。
 真城地区在住の菅原仁さん(43)に話を聞くと、「自分が小学生の時は社会科見学で真城寺のすぐ側にある工房を見に行きました。地元のお母さんたちが、ガラスと布と木の皿を貼り合わせていた」そうです。
 手がかりを掴むため文献を調べると、1978年発行の「岩手百科辞典」には、「水沢の特産品には鉄器の他に金欄皿がある。1956年(昭和31年)水沢市真城寺の41代住職吉水等観が創作したもので、(中略)国内外に輸出している。国際見本市に出品してから脚光を浴び、美智子様ご成婚の際正田家の引き出物に作用された」とあります。
 今は途絶えてしまいましたが、1959年に民間から初めて天皇家にお嫁入りしたシンデレラストーリーに、水沢で作られた等観金欄皿が携わっていたことも縁なのかも知れません。

それは地元の皆で支えられている!「南部鉄器」

自分は地元の温泉に開業した20年前から携わってきましたが、このワークショップに参加するにあたって自分の棚卸をしてみた時に、ふと温泉の前に勤務していた南部鉄器メーカーにいた佐々木君の事を思い出しました。
実際に工場を訪れてみた所、いました! 佐々木吉栄(よしえ)君。あだ名は大きいから「ジャンボ」昭和感満載。まだ鋳物屋さんでがんばっていたんですね~
確認した所、佐々木君は障がい者支援施設の静山園さんにお世話になりながら、1987年からかれこれ40年近く勤務しています。もう60歳です。仕事は職人の手伝い、主に重い道具を持つなどの肉体労働。暑い現場で大変な作業なのに、明るい笑顔は相変わらずですね。
佐々木君の他にも支援施設にお世話になりながら、南部鉄器関連の工場に通っていた方々は、のべで恐らく数千名規模になるのでしょう。南部鉄器のブランドが成り立つための、強力な助っ人です、、、
帰りしなに自転車にまたがる佐々木君に声を掛けると、彼は20年前と変わらず、元気に挨拶をして行きました
「おやすみなしゃい!」
南部宝生堂 株式会社 及富 http://oitomi.jp

現代日本の設計者たちの故郷
その奥州・水沢市民に愛されたファーストレディー・齋藤春子さん

 岩手県出身4人の首相。その一人が水沢出身の齋藤実(まこと)。実・春子夫妻と昭和最大の”二・二六”テロ事件を静かに語る『齋藤実記念館』(旧・齋藤実邸)。未亡人春子さんが水沢に移り住み余生を終えたことをご存じだろうか。水沢名誉市民の春子さんと幼少期に実際に交流した方の話を聞くことができた。
 NPO代表の佐藤基さん(63)は斎藤邸の近くで生まれ育った。
「椎名悦三郎(自民党重鎮)も近所で見たことある」
悦三郎の叔父である”百年先の羅針盤””大風呂敷”と呼ばれた医師・後藤新平の生家もすぐ近くにある。
約半世紀前の話、家同士を飼い猫が行き来した縁で佐藤少年は晩年の春子さんに大変可愛がってもらったそうだ。和服姿の膝の上にいつも猫がいた。
「本当に猫好きだった。水沢では見かけない上品な人だった。(子供会活動で)家の前を掃除していると僕らによくバナナを配ってくれた」
 現在、ミニディサービス運営など地域支援活動中の佐藤さん。その優しさや信念は、春子さんを受け入れた水沢の町が育んだのではないか。
 水沢は現代日本の原型をデザインした先人たちを多く輩出。高野長英・後藤新平・斎藤実・椎名悦三郎・小沢一郎……多様な人材や影響を残している。新コロナ禍で今までの価値観や常識が限界を迎えた令和時代、彼ら先人を再評価すべし。過去と未来の羅針盤に思い馳せてしまうこの町にワクワク感が半端ない。
 斎藤実記念館・高野長英記念館・後藤新平記念館はそれぞれJR水沢駅から徒歩10~20分。

斎藤實記念館
http://www.city.oshu.iwate.jp/htm/soshiki/syakai/kousui/top.html

●齋藤春子(1873~1971)
戦前のファ―ストレディ。薩摩海軍仁礼家のお嬢様。幼い時は皇室宮家の遊び相手。高嶺の花で英語堪能。首相夫人外交に活躍。凛とした武士道の心。二・二六事件では瀕死の夫をかばい「撃つなら私を撃ってください」と将校らに立ちはだかる。負傷の血染めの着物が齋藤実記念館に展示してある。戦後は東京から疎開先水沢に永住。
●齋藤実(まこと 1858~1936)
第30代総理大臣。海軍軍人だが温厚な篤実家。朝鮮総督も10年温情統治。水沢の農家の出。15歳下の春子とのおしどり夫婦ぶりが有名。二・二六事件(1936年)で陸軍過激派に東京の自宅で銃殺される。


「樹齢700年!?」安倍氏の屋敷跡に咲く高さ20mの巨大桜

東北自動車道の平泉前沢ICを南下してしばらく進むと、道路の東側に大きな桜が見えて来る。これが奥州市衣川にある「北館桜」だ。
「北館」とは前九年の役などで有名な安倍氏の居館跡の一つであり、その跡に鎌倉時代に行脚僧が植えたという逸話が残る。樹高20m、根本の周りが7mという大きさはとても見応えがある。


大滝詠一さんの学び舎、
奥州市立梁川小学校、懐かしの二宮金次郎像

萬年山金性寺が見下ろす、ここ梁川小学校は、金性寺を仮校舎として明治6年に野手崎小学校として開校しました。
この小学校には苔にまみれた二宮金次郎像がひっそりと勉学に佇んでいます。
ここに通う学童たちはだれしも二宮金次郎像に愛着を持ったと思います。かく言う私もその一人。悪童であった私は、金次郎像が手に持っている本に何が書いているのか、先生達の目を盗んではよじ登って覗いてみた記憶があります。
大滝詠一さんはこの地で生まれ小学時代をここで過ごしました。
詠一さんの作品には二宮金次郎像に扮し、そして戯れた自分の写真を載せたアルバムジャケットがあります。
詠一さんはよほど愛着があったのか、写真では金次郎はまるで友達の様に戯れていますね。
この学び舎は旅立ちの季節になると梅の花の香りが漂い、桜の開花も間近になります。
そんな学び舎から、今年の卒業生は詠一さんの『君は天然色』のメロディでワクワク。学び舎から拍手で見送られたそうです。卒業生たちは笑顔で開花し、そして詠一さんの笑みがこぼれているような情景がまぶたに浮かびますね。


さて、この地域は江戸時代伊達藩の北辺の守りとして軍事的に重要な地でありました。そのため各地から多くの人が集まり生活し文化を築いてきました。そして旧跡、無形文化財が多く残っているところでもあります。
この地の無形文化財金津流獅子踊りは梁川小学校の生徒たちに『金津流梁小獅子踊り』としてしっかり伝承されているようです。ここで生まれ育った人たちは、獅子踊りを思い出すとき『でですこでん』と口ずさみます。
ここは古代からも人が住む悠久の地。眩い自然と人々が織りなす音・リズムがあります。『忘れ難きふる里』と言ってもよいでしょう。
詠一さんもこの地で『でですこでん』を聞き育ち、ふる里を離れても、きっとそう思っていたに違いないと信じています。
大滝詠一ファンの無形コレクションとして、詠一さんの在りし日を偲ぶとき、この小学校の金次郎像を訪れてみるのはどうでしょうか。


山頂にさらに櫓が!?その上から見える
360度のパノラマが素晴らしい奥州市江刺の“尻掛山”

奥州市江刺広瀬に尻掛山と言う、ちょっと変わった名前の243メートルほどの低山がある。
坂ノ上田村麿が奥州討伐の折り、尻を掛けて胆沢城を眺望しながら作戦を練ったと言われる山だと言われ、義経の北方伝説の折りにも、尻を掛けて平泉方面を眺めて涙したとの伝説もある山だ。
つい最近ではNHK大河ドラマ「女城主、直虎]のロケも行われていたりする。

登り口の駐車場から1キロほど歩くとたどりつく山頂には、地元の人たちが築いた高さ10メートル程の見晴台の櫓が組まれており、注意しながら登らなければならないが、その上から見る景色は低山とは思えぬ絶景である。晴天時には、岩手山、早池峰山、種山高原、栗駒山などが一望できるので、是非登ってみてほしい。最近では遊歩道を整備しつつあり、完成すれば最適なトレッキングルートになると思われる。

自然豊かな江刺の山なので、野生の動物とも出会えるかもしれない。驚かせないように注意しながら、是非楽しく歩いてほしいと思う。


豊かなる里山暮らし。奥州市江刺の里山生活学校に学ぶ

 仕事を終えて見上げる星空や新緑と鳥のさえずり。岩手に暮らしていると、いつの間にか当たり前の光景になって、そのぜいたくさを忘れがちだ。四季の巡りとともにある里山暮らし。奥州市江刺広瀬にある「里山生活学校」は、訪れた人が里山の資源に気付くきっかけをくれる場所だ。
 運営するのは、農的暮らしをしながら里山農場「うたがき優命園」を営む河内山耕さん(55)、可奈さん(49)夫妻。広大な農場や森を学びの場として活用し、自然観察や創作体験などの機会を提供してきた。

 春の恒例行事がワラビ採り。ワラビがたくさん出る森を開放し、かごいっぱいに持ち帰ってもらう趣向で、大人も子供も夢中になって探す様子は「ザ・里山レジャー」といったところ。かまどで作る山菜ピザも格別のおいしさだ。


 2009年の開校以来、河内山さん夫妻が一貫して取り組んできたのが里山地域資源の利活用。スタッフや学生らと共に憩い、学び、遊べる里山づくりを進めながら、木の椅子やロケットストーブ、地下浸透式トイレなどを作るノウハウを蓄積してきた。10年余りの間には、活動拠点のあずまや建設、里山に自生する樹木を紹介する「擬人化で楽しむ 里山樹木利活用図鑑」の発行といった成果も生んだ。


 体制が整わず、学校の定期活動は昨年から休止中。新型コロナウイルスの感染拡大の影響もあり、以前のような形で開催することは難しいという。少人数で「小さく、深く」の活動を模索する中で、この春始めたのが田んぼキャンプ。里山のシンボルであるサシバの保護と連動した取り組みで、農場で栽培する米の購入者を招いて里山の自然環境を伝えている。

 結婚と同時に里山に入植し、30年にわたって手作りの暮らしを続けてきた河内山さん夫妻。地域の人口が減る中、今後は移住促進の取り組みに協力していく考えで、耕さんは「里山生活学校の実践は興味がある人に役立ててもらえるもの。田舎暮らしを始めたい人と地域との橋渡しをしていけたら」と話す。

 自然の恵みにあふれた江刺の里山。農産物を買って応援するもよし、活動日に訪ねるもよし。手間ひまかけた暮らしをいとおしく感じたなら、それぞれの生きる場に持ち帰り、そこにあるものの価値にもっと目を向けていこう。


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