日本有数の温泉街・箱根の名物ごはん
名物とはどのようにして生まれるのでしょう? 農作物や海産物などの特産品を使ったものや、観光地をアイコンにした商品など、その土地にある資源を利用してつくられたものがひとつ。そしてもうひとつは、とあるお店の商品が人気を博し、そのまま名物となったケースです。
今回は、後者の名物をご紹介します。場所は、温泉地として有名な神奈川県・箱根町。「箱根の山は天下の険」と謳(うた)われた山々と澄んだ川、美しい湖など豊かな自然に囲まれたこの地には17もの温泉場があり、年間を通して多くの人が訪れます。箱根の玄関口である箱根湯本駅で、タクシーの運転手さんに「鯛ごはんのお店」と伝えれば、迷わずこのお店にたどり着けるはずですよ。
淡雪のようなフワフワの鯛
箱根湯本駅から車で5分ほど走ると、塔ノ沢温泉へ続く入り口である「千歳橋」の美しいアーチが見えてきます。そのたもとにある朱色の壁のお店が、鯛ごはん懐石の「瓔珞(ようらく)」です。お店では、京都・南禅寺の老舗料亭で修行を積んだご主人による四季折々のお料理や創作小皿と一緒に、看板メニューである「鯛ごはん」または「鯛茶漬け」がいただけます。
瓔珞の鯛ごはんは、鯛と米を一緒に炊きあげるのではなく、ごはんの上に細かくほぐした鯛の身がふんだんに乗っているのが特徴です。ひと口食べてびっくり。出汁の風味たっぷりのもっちりとしたごはん、鼻を抜ける柚子と三つ葉の爽やかな香り、そしてなにより鯛がまるで淡雪のようにフワフワなのです!
じっくり焼いた鯛と昆布だしのハーモニー
「ごはんは箱根山の天然水を用いた昆布だしで炊き上げたものです。鯛は、手作業でほぐしています。小田原漁港から仕入れた鯛を、1時間かけてじっくりと両面焼いて、皮をはいで、あとは手作業で地道にほぐして、ほぐして……を繰り返します」この丁寧な仕事が、鯛のフワフワ食感につながっているんですね。
教えてくれたのは、瓔珞の調理全てを担当する北野勝三さん。勝三さんと接客を担当する奥様の久美子さんに、鯛ごはんのおいしさの秘密、そして鯛ごはんが箱根名物になるまでの軌跡を伺いました。
なぜ箱根で鯛ごはんだったのか
瓔珞は1992年に勝三さんのお父さんが開いたお店。勝三さんは、かつてお父さんも修業した京都・南禅寺の老舗料亭で自身も修業した後、この店に戻り跡を継ぎました。ここで浮かぶひとつの疑問。なぜ箱根で「鯛ごはん」だったのでしょうか?
「実は、箱根と鯛には何の関係もありません。というのも、箱根にはコレ!という食の名物がないんですよ。鯛ごはんを始めたのは父ですが、祖父が小田原漁港で働いていたので、元々魚への愛着があって、魚を看板メニューにしようと考えたのかもしれません。鯛というのはユニークな魚で、特別な日に食べる高級魚でもあるけれど、誰もが知る大衆的な魚でもありますよね。出てくるとなんだか気持ちが上がる。そこに惹かれて鯛を選んだのだと思います」
食通と観光客が入り混じる環境に対応
鯛ごはんを看板メニューに据えたものの、今の形になるまでは試行錯誤の連続だったそうです。特に悩みの種となったのは、有名温泉地ゆえの客層の幅広さ。京都の老舗料亭出身の料理人に期待してやってくる食通のお客様と、観光の合間にふらりと立ち寄る一見のお客様が混在しており、そのどちらにも対応できる料理を提供しなければなりませんでした。
「瓔珞を訪れるお客様の多くは『旅の途中』。鯛ごはんを土鍋で炊き、炊き上がるまではほかのお料理を楽しんでもらうというスタイルだと、お客様が求める食事の提供時間に合わない。紆余曲折を経て、ごはんと鯛を別々に調理するという今の形に落ち着きました」。こうして生まれたシンプルでやさしい味の鯛ごはんは多くの旅人の心を掴み、箱根の名物となっていったのです。
食事というハレの時間を楽しんで
「瓔珞」という店名は、仏様の装身具からきているのだそうです。お店では瓔珞模様の食器でお料理を提供しています。店名に込められた想いは、「食事の時間は、楽しく華やかなハレの時間であってほしい」というもの。「食事の時間は、共に食卓を囲む人たちと過ごす楽しい時間。そこに料理人の技術の主張はいらないと考えています。シンプルだけど家ではなかなか食べられない、少し華やかでおいしい料理を提供できたら、という気持ちです」と勝三さん。
鯛ごはんセットを、ぜひご自宅で試してみてください。小さなお子様からお年を召した方まで安心して食べられる、ほっとするやさしい味。「おいしいね」と、自然と食卓に笑顔と会話があふれるはずですよ。