ごあいさつ
おかげさまで創業百三十余年、皆さまに親しまれ、和菓子ひと筋に店を構えて参りました。
一年を通じ、その姿に四季のうつろいを伝える、和菓子。
私ども職人は、その意匠や色あいに時々の季節を表現し、お客さまがそれを感じとり喜んでくださる。
菓子を介し、お客さまとのそんな会話を楽しむように、和菓子づくりに精進してまいりました。
春夏秋冬の表情が豊かな日本だからこそ、生まれ得たスイーツ、和菓子。
その小さな存在に、日本の自然や文化の豊穣を映し、これからも皆さまの元にお届けしたいと思います。
花月堂寿永のあゆみ
花月堂寿永の初代・五島又六はカステラの本場・長崎で菓子職人として修行を重ねました。
独立を夢見て、当時日本の占領下であった韓国・釜山に渡り、明治22年に『松栄堂』を開業。
それから10余年、『松栄堂』は釜山の日本人たちに親しまれる店へと成長しました。時を経て明治末期、又六は北朝鮮に渡り、咸興で新たに店を開きます。
屋号は、花鳥風月から「花月」、源氏のお家再興にあやかり年号の「寿永」の名をもらい、『花月堂寿永』としました。大正10年頃、又六は地元特産の梨を使った梨羊羹を販売、観光名物になるほど人気を博しました。
終戦を迎え、福岡に引き上げた二代目の靖祥は、
昭和23年、現在の春吉の地に『花月堂寿永』を構えました。
靖祥は、根っからの菓子職人で、趣のある珍しいお菓子を次々と創作しました。
謡曲に材をとった“唐舟”、博多の夏の風物詩をイメージした“おきうと”等がそれで、
現在、当店に並ぶほとんどの菓子が、靖祥の手によるものです。
さらに「福岡の銘菓を創りたい」と思案。
昭和28年、当店の代表銘菓である“福うめ最中”が誕生しました。
「味を変えたらいかん」。
これが代々、『花月堂寿永』に継がれてきた教えですが、
その精神は尊びつつ、三代目・寿一、
そして四代目・郁太朗、五代目・慎太郎と、
その時代、時代に愛される菓子づくりを探求しながら、
『花月堂寿永』の味と暖簾を守り続けています。
韓国から北朝鮮、そして福岡へ。創業130余年の「花月堂寿永」
九州最大の繁華街・天神、そして日本を代表する歓楽街・中洲。この2つのエリアをつなぐ「春吉橋」から歩いて5分ほどの場所にあるのが、「花月堂寿永」。明治22(1889)年創業の和菓子店です。
当時、日本の占領下にあった韓国・釜山に渡った初代が「松栄堂」の名で創業。釜山で暮らす日本人に親しまれるお店へと成長しました。その後、明治末期には北朝鮮・成興(ハムン)に移転。店名を「花月堂寿永」へ改めます。成興では、特産品である梨を使った「梨羊羹」を開発し、観光名物になるほどの人気になりました。
ところが、第二次世界大戦の終戦で状況は変化。朝鮮半島は38度線を境に、北部にあった北朝鮮は旧ソ連軍の支配下に。そのため花月堂寿永は店を閉め、ほとんど着の身着のままで一家そろって韓国へ向かい、日本に渡る船に乗って帰国しました。
こうして、船がたどり着いたのが福岡市。縁もゆかりもなかった場所で、昭和23(1948)年、「花月堂寿永」をオープンさせたのです。現在は、終戦当時4歳だった五島郁太朗(ごとういくたろう)さんが、5代目として店を受け継いでいます。
先代が作り上げた味を守り続ける
波乱万丈の歴史をもつ花月堂寿永。ときに時代のうねりに翻弄されながらも、守り続けてきたものがあります。それが先代から受け継がれてきた、手作りならではの味です。例えば、看板商品の銘菓「福うめもなか」。福岡で店をはじめた2代目が考案したもので、上品でまろやかな風味の餡が特徴です。このほか、ショーケースのなかには、福岡の郷土料理「おきうと」、博多湾の志賀島で見つかった国宝「金印」など、福岡らしさを感じるネーミングの和菓子が並び、すべて考案された当時のレシピそのままで作られています。
「先代がしっかりと作り上げてくれた”一番おいしい味”で、これ以上のものはありません。だからこそ、私たちは味や製法を変えることなく、受け継いだそのままを伝え続けていきたいと考えているんです」。
先代の味を踏襲しながら、和菓子の新たな魅力を届ける
商品棚を見れば、ピスタチオやアップルシナモン、白桃などちょっと変わった羊羹が定番と一緒に並んでいます。これらは近年、五島さんや後継となる息子さんらが開発したものなのだとか。食べやすい小ぶりのサイズ感に可愛らしいパッケージは、若い世代にも人気です。
先代の味を踏襲しながらも、時代に合わせた和菓子作りを続ける「花月堂寿永」。食にうるさい福岡市民がここぞというときに頼りにするその味をぜひ、試してみてはいかがでしょう。